小川洋子さんと岡ノ谷一夫さんのこちらのご本、とても面白かったので、面白かったところをいくつか紹介します。
内容は「言葉の起源が歌ではないか」という仮説を研究している岡ノ谷さんと、小説家の小川さんが対談形式で話しているものです。
小川洋子さんは小説家で、著作の「博士の愛した数式」、「薬指の標本」は読んだことがあります。
壊れものを扱う時のような、繊細な文体で、独特の世界観を描ける方、という印象です。
この本の中でも、やはりもう表現が美しすぎて悶えるところがたくさんがあるので、小川洋子ファンにもおススメです。
私もこの本を読んで、さらに小川洋子さんの小説が読みたいなと思いました。
すごいなと思ったのが、対する岡ノ谷さんの表現も詩的で、負けずに美しいこと。
という仮説も詩的で素敵だなと思う。
これに対する小川洋子さんの返しもチャーミングなので読んでほしい。
小川さん「作品に一番潜れるのは作家本人でもなく、読者でもなく、編集でもなく翻訳家であると常々思う」というところから、この言葉を引用されている。
確かに同じ単語でも、文脈、シーン、誰が発するかによって、驚くほど変わる。
言葉には手触りや匂いがある、ということに、確信をくれるような一文だった。
(ジュウシマツの中には)自分でうたうことが好きで、メスに向かってはうたわなくなっちゃうヤツがいる。
岡ノ谷さんは研究のために、ジュウシマツを研究しているのだが、そこでこういう話をされていてウケた。小川さんも「草食系男子」と笑っている。
そこから、天才が生まれる話にも広がっていて、それも興味深かった。
脳は常に100%使っている。
特定のことに高い能力を持っている時は必ず、何かが犠牲になっている
まず、脳が100%使われているというのも、へぇ~と思ったが、言われてみればその方が肌感として正しいし、自分の内臓には100%を出していてほしいと思う。
何かの能力を持っていると、何かを失う、ということも論理的に説明された。
「目の見えない人の聴覚が発達する」というものだ。
何かを持ってる人に嫉妬してしまうけど、その人たちが取りこぼしている何かを埋めるような能力が私にもあればいいなと思う。
「言葉は情動を乗せない道具として進化してきたんじゃないか」
「隠蔽のコミュニケーションとして言葉が進化していったのではないか」
主にテキスト、書き言葉の話だが、つまり、言葉は嘘をつくために有用である、とも捉えられ、面白いなと思った。
「aならばb」「bならばa」ではない、と正しい推論をした結果、動物はシンボルを使いこなせず、言語をもたない。
人間は正しい判断をしない能力があったために、言語を操れるようになった。
ヘレン・ケラーの水を触って、「ウォーター」というシーンを上げての話。
水の手触りがある=「これは水だ」と人間は思う(「aならばb」「bならばa」)が、これは誤りである。
典型的な例:
「イスラム教徒はテロリストである」=論理的には誤っているのに、思い込んでしまう。
そこが言葉の危ないところ、ともいっている。
なんで動物は「aならばb」「bならばa」がわからないのか、と学者はずっと研究していたが、実はわかる人間の方がおかしいのである、という話をされていて興味深い。
英語が身につかない理由は「すでに学んでいるから」
「脳が一つの言葉を身につけると、他の言葉は拒絶するようになっているから」で「第一言語を学ぶ仕組みと、第ニ言語を学ぶ仕組みはまったく違う」
そうで、へーっと思った。
「日本語をしっかり使うために、英語を学ばないようになっている」とも言っておられて、確かに知人が子どもを日本語の理解のために、敢えて幼少期に留学させないというのを思い出した。
知人がそう決断した根拠は知らないのだが、脳で思考を行う際、言葉を使うので、一つの言語をマスターするのは大事な気がする。システムが一つの言語で動くように。
一冊を通して読んでいて思うのは、うっかり人間が一番賢いと思いがちだけど、鳥にももちろん知性があるし、方向が違うだけで偉いもの偉くないもないな…と。まぁ人間の知性は高度なのは確かなんだけれども。
この記事を書くためにさらっと再読したが、示唆が多すぎる。
難しすぎず、知的好奇心が高い人にはとてもおすすめです。
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