読書代行をさせていただいた本、貫成人さんの「ニーチェ―すべてを思い切るために:力への意志 (入門・哲学者シリーズ) 」。
これを読んで
「ニヒリズムってこういうことだったのか…!」
「ルサンチマンってこういうことだったのか…!」
「超人ってこういうことだったのか…!」
と感銘を受けたので、私なりに解説します。
ルサンティマン
よく日常でも使われるこの言葉。
私のイメージでは、「身なりに気を遣うなど努力をしない人」がモテる人を妬む気持ち、と理解していました。
「ルサンチマン」=「負け犬の遠吠え」なのかなと。
しかし、ニーチェは努力のあるなしなど関係なく、ただ、弱者からの妬みはすべてコレ、といっています。
この本の中では、「自分の村を暴漢に襲われた老人」が例えに出てきます。
老人には復讐する力がない。できることは「あんな悪いことをするやつは地獄に落ちる」と言うことだけ。「神はいる。道徳は正しい」と言うことだけ。
道徳もルサンティマンの産物ともいっています。
“弱者が唯一、強者を凌駕することができ、凌駕することによって自己防衛するための装置、それが道徳だ。”
神は死んだ
“道徳的価値の起源が、われわれの生きているこの現実世界における
心理的社会学的メカニズムにあることがわかった以上、
神は「恥ずかしくて生きてはいられない」とニーチェは言う。”
ルサンチマンの解説にもつながるのですが、
ニーチェは、「神」や「道徳」は弱者による言い訳である
といっています。
「そんな悪いことをしたら、お天道様が見ているぞ!」というのは弱者。
もし、悪いことをさせない力があるなら、そんなことを言わない。
道徳は欺瞞である。
道徳の延長上に作られた神も同じである。
「お天道様って、どこにいるの。あなたが私を従わせるための方便でしょ」
と看破されたら、恥ずかしくて、二度とそんなこと言えなくなる。
これをバラされたら神は恥ずかしくて生きてられない。
=神は死んだ、につながります。
ニヒリズム
“すべての差異を無化し、別次元の秩序に光を当てる
「大いなる正午」において永遠回帰思想を呑み込んだとき、
その存在は人間という類を超えた存在、「超人」となる。”
ニヒリズム、読む前の私のイメージは
「この世に、いいことなんかあるはずはない。なぜならみんな死ぬから」
という感じでした。
が、ニーチェによれば、この世には「良い」も「悪い」もない。
「Good」も「Bad」もないんです。
(英語にしただけ)
「いい」「悪い」の価値基準がそもそもない。
ニーチェのニヒリズムは「この世=無価値」ではなく、
「価値」基準そのものが、まやかしだというもの。
それが永遠に繰り返されている。(「永遠回帰思想」)
でも、みんな自分には、自分の人生や、やっていることに、価値があると思って生きたい。
もし、真面目に生きていることが、何の価値もないなんて、直視できない。
もし、それを直視しながら生きているとしたら、それは人間ではない。
「超人」である。
超人
ということで、「超人」はスーパーマンのことではなく(私はそう思っていた)
「この世に価値がない」ということを真に見つめながら、生きている人のことなのでした。
大いなる午後
これは、「超人を目指そう!」とするご褒美でもある。
「良い」「悪い」の価値がない世界は、さながら、晴れ渡る荒野である。
そこには、神も善悪もない。「Good」も「Bad」もない。
しかし、太陽が真上に来た時、井戸の底の水脈に光が当たる。
その時、「悟り」を得る。かもしれない。
それが、大いなる午後!
わかる?
わからなかったら本読んでくれ。
まとめ
ニーチェは神、善、自我などはないと否定している。
しかし、それは人々にとって受け入れがたい。
なので、「超人」になれば悟りが得られる、と道筋を示している。
あとがき
読んだのが結構前なので、理解が若干ぼやけていますが、私はこういう風に理解してます。
本を5回くらい真剣に読みました。真剣に読んだらわかるはずなので、ぜひ。
この記事へのコメントはありません。